住む土地がはぐくんでくれるもの
暑い暑いとひたすら言い続けた(まだ残暑は続いきそう、、、💦)8月ももうすぐ終わり。今年の夏は改装工事やらキッチンの機器類の交換工事やらで自宅に張り付くことも多くさながら現場監督のような日々でした。やっと諸々終了し来週からいよいよ本の撮影が始まります。
本の中では私がお勧めする奈良のお店や、なんとアススカーナの直売所のご紹介なんかもありここへきて私の”奈良愛”の深さに我ながら驚いています。ちょっと話は逸れますが先週東京のとある雑誌から自宅の取材申し込みがあったのですが、私が奈良に住んでいるとご存じなかったらしくスケジュールとかの関係で取材自体無しということになりました。もう一度ここで言いますね。私はアスカーナ(明日香)地方に住んでま~す!!
さてもとに戻って、、、本の話が進む中で今一度いろんなことを考えました。その中の一つが住んでる土地と住み手の関係性です。私は神戸生まれの神戸育ち。元町や三宮が庭のような子供時代・少女時代を過ごしました。そして神戸から奈良に嫁ぎ、豊かな自然に恵まれた歴史の深い場所に暮らすうちに私は大きく変わりました。もちろん根っこには神戸っ子の血が流れてるんだけど、今ある私は間違いなくアスカーナという土地が育んでくれたのだと思うのです。うまい具合に私の中で神戸とアスカーナが化学反応を起こしたって感じかな?(笑)
よく関西も一丸となればもっと地域が発展するのに、なあんて思いますが、関西ってそれぞれの県のキャラが立ちすぎててなかなか難しいですよね。その中でもコウベイットとキョウトイットはなんだか特別な意識を持ってるのは関西では有名なお話。かくゆう私もかつてはそうでした。「神戸が一番」「神戸のお菓子やパンは一番」なんてね。コウベイットだった時には初対面の人にも「やっぱり神戸の人はお洒落ね~」なんて言ってもらって鼻高々している嫌なヤツでした(笑)でもナライットに変わった途端私自身は変わっていないのに誰もそんなことは言ってくれませんでした。「奈良の人はお洒落ね」なんて。
そんなことから私は住んでいる場所が人を印象付けることの無意味さについて深く考えるようになったんです。数年前以前仕事をしていた会社の営業が芦屋在住のコーディネーターと私を前にして放った言葉が今でも忘れられません。「○○さん、芦屋のマダムって感じやね~奥村さん、吉野の山奥からわざわざ出てきたん?」 私は山猿なのか??もちろん吉野に住まわれている方にもとても失礼な発言です。
瞬間思いましたよ。
「呪われてしまえ!」って(笑)
でも多くの人がそうなんだと思います。自分の住んでいる場所より地味だったり不便だったりする場所に住んでいる人に少なからず優越感を持つ感覚。憧れの場所に住んでみたところでその中にも土地的ヒエラルキーがあったりする訳でなかなか厄介なことです。
アスカーナに住むようになってから私は場所的ブランド志向の全くない人間になりました。無理しているのではなく住む場所でその人の個性をとやかく言うのは不毛なことだと思うからです。もちろんここにはこじゃれたカフェも美味しいケーキ屋さんもありません。でも人間の感性の奥深いところに触れる素晴らしい自然の瞬間に毎日出会うことができるんです。四季の移り変わり、季節で変わる草の香り、虫や鳥の声、、、それらに私は五感をビシバシ鍛えられている感じがします。
そんなこんなで場所的ブランド志向がなくなった分一気に「私のいるところが日本の中心!」レベルのとんでもないぶっとんだ思考を持つようになったんですが、これはこれでオソロシイことです。勝手にアスカーナとか言ってブランド化しようとしてるし、、、(笑)とか言ってるうちにアスカーナに「星野リゾート」もできるみたいで「いやん、すごいやん、ワタシいろいろ呼び寄せてるやん。”くみ呼”(卑弥呼とかけてます、笑))様すごい!」と私が誘致した訳でもないのにひとり悦に入っております。(しかもできるのまだ先だから生きてるのか?ワタシ)
あと、私が強く思うのは住む土地のブランドではなくその人にとっての「気」が良いかどうかが一番だってこと。私の住んでいるところは私にとってものすごく「気」が良いんです。上手く言えないんだけど感覚的にそう思います。奈良ではありませんが大阪の中之島もその場所にいるとすごく良い「気」を感じます。私がアートのイベントをやるならぜったい中之島と思ったのもあの土地が持つ「気」が影響しているんです。
都会に住んでいても視野の狭い「イナカモン」はいっぱいいるし田舎に住んでいても視野が外に向かっている「感覚的に洗練された人」もたくさんいます。要は住む場所がどうこうではなくその人がどういう人であるかということ。
本の中ではちょっぴりそんなことも伝えられたらと願っています。。。
本の中では私がお勧めする奈良のお店や、なんとアススカーナの直売所のご紹介なんかもありここへきて私の”奈良愛”の深さに我ながら驚いています。ちょっと話は逸れますが先週東京のとある雑誌から自宅の取材申し込みがあったのですが、私が奈良に住んでいるとご存じなかったらしくスケジュールとかの関係で取材自体無しということになりました。もう一度ここで言いますね。私はアスカーナ(明日香)地方に住んでま~す!!
さてもとに戻って、、、本の話が進む中で今一度いろんなことを考えました。その中の一つが住んでる土地と住み手の関係性です。私は神戸生まれの神戸育ち。元町や三宮が庭のような子供時代・少女時代を過ごしました。そして神戸から奈良に嫁ぎ、豊かな自然に恵まれた歴史の深い場所に暮らすうちに私は大きく変わりました。もちろん根っこには神戸っ子の血が流れてるんだけど、今ある私は間違いなくアスカーナという土地が育んでくれたのだと思うのです。うまい具合に私の中で神戸とアスカーナが化学反応を起こしたって感じかな?(笑)
よく関西も一丸となればもっと地域が発展するのに、なあんて思いますが、関西ってそれぞれの県のキャラが立ちすぎててなかなか難しいですよね。その中でもコウベイットとキョウトイットはなんだか特別な意識を持ってるのは関西では有名なお話。かくゆう私もかつてはそうでした。「神戸が一番」「神戸のお菓子やパンは一番」なんてね。コウベイットだった時には初対面の人にも「やっぱり神戸の人はお洒落ね~」なんて言ってもらって鼻高々している嫌なヤツでした(笑)でもナライットに変わった途端私自身は変わっていないのに誰もそんなことは言ってくれませんでした。「奈良の人はお洒落ね」なんて。
そんなことから私は住んでいる場所が人を印象付けることの無意味さについて深く考えるようになったんです。数年前以前仕事をしていた会社の営業が芦屋在住のコーディネーターと私を前にして放った言葉が今でも忘れられません。「○○さん、芦屋のマダムって感じやね~奥村さん、吉野の山奥からわざわざ出てきたん?」 私は山猿なのか??もちろん吉野に住まわれている方にもとても失礼な発言です。
瞬間思いましたよ。
「呪われてしまえ!」って(笑)
でも多くの人がそうなんだと思います。自分の住んでいる場所より地味だったり不便だったりする場所に住んでいる人に少なからず優越感を持つ感覚。憧れの場所に住んでみたところでその中にも土地的ヒエラルキーがあったりする訳でなかなか厄介なことです。
アスカーナに住むようになってから私は場所的ブランド志向の全くない人間になりました。無理しているのではなく住む場所でその人の個性をとやかく言うのは不毛なことだと思うからです。もちろんここにはこじゃれたカフェも美味しいケーキ屋さんもありません。でも人間の感性の奥深いところに触れる素晴らしい自然の瞬間に毎日出会うことができるんです。四季の移り変わり、季節で変わる草の香り、虫や鳥の声、、、それらに私は五感をビシバシ鍛えられている感じがします。
そんなこんなで場所的ブランド志向がなくなった分一気に「私のいるところが日本の中心!」レベルのとんでもないぶっとんだ思考を持つようになったんですが、これはこれでオソロシイことです。勝手にアスカーナとか言ってブランド化しようとしてるし、、、(笑)とか言ってるうちにアスカーナに「星野リゾート」もできるみたいで「いやん、すごいやん、ワタシいろいろ呼び寄せてるやん。”くみ呼”(卑弥呼とかけてます、笑))様すごい!」と私が誘致した訳でもないのにひとり悦に入っております。(しかもできるのまだ先だから生きてるのか?ワタシ)
あと、私が強く思うのは住む土地のブランドではなくその人にとっての「気」が良いかどうかが一番だってこと。私の住んでいるところは私にとってものすごく「気」が良いんです。上手く言えないんだけど感覚的にそう思います。奈良ではありませんが大阪の中之島もその場所にいるとすごく良い「気」を感じます。私がアートのイベントをやるならぜったい中之島と思ったのもあの土地が持つ「気」が影響しているんです。
都会に住んでいても視野の狭い「イナカモン」はいっぱいいるし田舎に住んでいても視野が外に向かっている「感覚的に洗練された人」もたくさんいます。要は住む場所がどうこうではなくその人がどういう人であるかということ。
本の中ではちょっぴりそんなことも伝えられたらと願っています。。。
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