10周年企画(2)なぜこの仕事を始めたのか編
こんなこと私はブログにしてますが、だれしも仕事を続けている以上その苦労を綴った”一人自分史”を作ることができるのだと思います。仕事が面白い、楽しいってことはあり得ない気がするし(少なくとも私にとっては。)ポジティブな形容が仕事にあるとしたならば”やりがいがある”くらいでしょうか?(これも私にとっては、ですが。)インテリアコーディネーター時代もよく「きれいなお仕事でいいですね。」とか「センスいいからぴったりですね。」などと言われましたがいつも心の中で否定していました。よく誤解されるのですが、インテリアコーディネーターはインテリアデザイナーとは違います。その名称も日本で作られたものでどちらかというと物販を売るという商売的な要素が強いのです。
さて今日はどんな話の展開に。。。気になるあなたは続きをどうぞ!
詳しく説明するとまずはそのあり方で、お気に入りのデザイナーや建築家に新築を頼んだという場合とまったく違うのです。住宅メーカーではお客様は担当ICを選べないのでその都度私たちがお客様の好みに合わせインテリアコーディネートしなければなりません。まずはお客様のお好みありきで、北欧・フレンチカントリー風・クラシック・モダンすべてのスタイルに柔軟に自分を合わせて打ち合わせを進めるのです。不思議なことにフリフリの花柄プリントのカーテンを一緒に選んでいるとその時は完璧に自分もそれが好きになるんですよね(笑)。
かと言ってソフトなことばかり決める訳でもない、、、どの物件も建築士とペアで担当するのですが、設計段階から時には外構の打ち合わせにも同席して一緒にあれこれ決めていくことも多く、奥様からは同じ女性としての意見を求められたものでした。
いつも思ってましたがICの仕事って”金の鯱”を玄関に飾りたいっていう方がいらしたら一番センスのいいそれを探して差し上げることだなって。(幸いなことにそんな依頼はありませんでしたが、かなり近いことはいっぱいあったな、、笑)
それらに加え物販つまり照明・カーテン・家具・システムキッチン・造作家具などを販売するという大きな役割があります。お客様に納得していただくために様々なことに気を使い気持ちよく大きな金額のものを購入していただくのは並大抵のことではありません。特に関西では(苦笑)。しかも途中からはディスカウントがウリの大手家具店ができたりネットの台頭で本当に大変でした。自分の作ったプランごとごっそり持っていかれる時の口惜しさったら!(これは関西では普通によくあること。)さらには引き渡してからのクレーム回避ということにも常に気を使わなければなりません。新しく発売されたから、きれいだから、カッコいいからという基準でものを選ぶと後から大変なことになっちゃう。。。
でもこの”商売”を関西というそれは厳しい土地でずっとやってきたことでずいぶんと鍛えられたのも事実。そしてその経験から私は”商売”という言葉を肯定的にとらえるようになりました。お客様が欲しているものを一生懸命探してきて用意して、最高のホスピタリティーでお渡しして、奥村さんから買って本当に良かったと思ってもらえる、この一連の流れが”商売”だと考えるようになったのです。なのでアートの仕事についてもまずは売るべきものという考えが根底にありますが、そんなことを声高に言うと「アートはそんなもんじゃないっ!」とお叱りを受けそうなんでこっそり言ってますけど(笑)。(こっそりついでに「目指せ!ナニワの女ガゴシアン!」とか言ってるし、爆。)でも日本ではアートが売れない売れないって声を耳にするたびにちょっと不思議な感じがするんです。
これは私が奈良で本格的にインテリアコーディネーターに取り組むようになってからいろいろ学んだことの一例です。そろそろ奈良時代(←歴史か!)のオハナシにまいりましょう。
当時大きな拠点となる支店にしかワークルームはなかったのですが、私の場合特例が認められ奈良営業所にたった一人で机と電話が与えられ常駐することになりました。それはなぜか?PC前もしくはスマホ画面に向かっているあなた、爆笑の準備を!!”彼女は線が細いから転勤早々ほかのコーディネーターと一緒にしたら潰されるんじゃないか”という上の判断からなんです。ホントなんですって!!!その会社ではアシスタント時代は社員扱いでしたが、ICに昇格すると一人一人が個人事業主となりフリーランスとして契約をすることになっていました。つまり皆が一匹狼というわけなんです。(←この表現古いですかね?)当時オオカミちゃんの一人になった私は全然ダメダメな気の弱いICでした。
確かに旬の仕事には個性豊かな人材が集まりますから、その意味では大阪もすごかった。でもみんな全然イジワルなんかじゃなくて大人だったので「なんであの人だけ奈良に一人でいる訳?奈良の仕事を独り占めする気?」なんていう人は一人もいなかったしすぐに打ち解けることもできました。心の中ではどう思われてたかは知りませんけど(笑)、ICの仕事をやってた時ほど自分が女子校育ちで良かったと思ったことはありません。
気分的にはすぐに楽になり仕事を始めたもののとんでもない日々が待っていました。今までは神戸の先輩コーディネーターたちのおこぼれ的お仕事をわずかにもらっていたのがたった一人のICということで小さい物件から私が担当するには一桁間違ってるんじゃないの?的物件まで否応なしに担当することになり毎日が無我夢中。その頃の数年間を思い返すと私の頭の中は真っ白になって、事務所の机の前の景色と現場の匂いの記憶しか蘇ってこない。いやあ、よく働きました。。。今一人で仕事をしていて立て込むときは一気にいろんなことをやらなきゃなんないんだけど、そのハンドリングが簡単にできるのは当時の経験があるからなんだと思います。「もうこれ以上仕事受けれません。もう無理!死んでしまう~」と訴えたら「忙しくて死ねるんならICとして本望じゃないですか!そんなことほかのICが聞いたらぼこぼこにされちゃいますよ!」と設計担当の若造?に返され絶句したのも今では良い思い出。。。(←良くないか、、、)
という訳で山のような仕事をこなすうちに”ICは私の天職”という錯覚を抱えてしまい、仕事を続けていくことになるのです。。。続く。
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