私の中の「使いみちのない風景」
少し前の話になりますが、9月にこぉとで「本とコーヒー」イベントを開催しました。ふと思いついたイベントなのですが、なかなか充実した内容となり、参加いただいた方からも「とても興味深くすぐにでも本を読みたくなった!」と満足いただけたようです。
このイベントの内容は毎年アート中之島にも出展してくださっているYARD中谷氏の淹れるコーヒーを楽しんでいただきながら本について2人で語るというもの。私だけでなく本とコーヒーの強い親和性には多くの方が共感してくださると思います。ただお気に入りの本について話すだけではつまらないと、中谷氏に先に選書してもらいそれらに私がアンサーブックを返すスタイルにしたのです。
インスタグラムでも紹介したのでもうご存知の方もおられると思いますが、中谷氏の選書と私のアンサーブックは以下の通り。
中谷氏選書(1) 「人はなぜ戦争をするのか」 A.アインシュタイン/S.フロイト
奧村アンサーブック 「1984」「動物農場」 ジョージ・オーウェル
中谷氏選書(2) 「アイデアのつくり方」 ジェームス・W・ヤング
奧村アンサーブック 「新・魔法のコンパス」 西野亮廣 「小さな声、光る棚」 辻山義雄
中谷氏選書(3)「使いみちのない風景」 村上春樹
奧村アンサーブック 「遠い太鼓」 村上春樹
さてここで語りたいのは最後の選書のやり取りについて。「使いみちのない風景」をめぐるあれこれです。記憶には鮮やかに残っている風景だけれど、そこから何も始まらない、どこにも結び付いていない、何も語りかけない、ただの風景の断片のことを村上氏が「使いみちのない風景」と名付けているという一節があります。
そこから中谷氏はご自身にとっての旅先での「使いみちのない風景」の話になったのだけれど、ふいに「奥村さんにとっての”使い道のない風景”はなんですか?」と問いかけられました。突然のことだったのでしばらく考える時間が必要でしたが、今も記憶に残っていて、それこそ記憶の断片として時折思い出す風景が頭に浮かびました。
しかもその風景は厳密に言うと私は見ていないのです。
初めて訪れたNYのMOMAでのこと。アート鑑賞で疲れ果てた私たちは(先輩コーディネーターとの2人旅)カフェでコーヒーを飲んでいました。その時一人の男性から突然私たちの写真を撮っていいかと話しかけられたのです。なんのことかわからず問い返すと「壁に飾っているモノクロの写真作品と2人の黒い髪、瞳がとても合っているんだ」と返ってきました。
そう言われてみるとその写真作品とそれをはさむ2人の黒い髪の2人の構図はなかなかに素敵です。思わず感心して撮影を承諾しました。カメラを首からぶら下げた男性はきっとカメラ撮影が趣味だったのでしょう。「すごく良いのが撮れたと思うよ」と満足気に立ち去っていきました。そう、立ち去っていったのです。当時デジカメもスマホもない時代、彼がおさめた写真を私たちが見ることできず彼だけの風景として残っていったのです。
けれど不思議なことにその風景を俯瞰して見る私がその時確かにいて、自分は見ていないのにその風景をリアルに覚えています。”壁にかかる黒いフレームに入ったモノクロ写真をはさんだ2人の黒い髪の女性、そしてテーブルの上に白のコーヒーカップ”その風景にあるストーリーはそれだけ。そこから何にも繋がっていかないまさに風景の断片です。時折その出来事が今の時代に起きていたらと想像することがあります。「こんな感じで撮れたよ」とみせてもらって「あら素敵」と返す風景。けれどもしその時その画像を見ていたとしたら、これほどまでに記憶として残ったでしょうか。
ブログをはじめ自分で写真を撮り始め、今はインスタグラムにそれらを投稿しているけれど、時折その私が見なかった風景を思い出すことがあります。今でもはっきりと記憶にある風景(何度も言いますが実際には見ていない)、そしてこのイベントで話すことができた風景は結局のところ私にとっては「使いみちの”ある”風景」だったのではないだろうか?と思うのです。
SNSで写真が簡単にそして大量に流れていくこの時代、いくら素敵なそれらでも心に焼き付けることはかえって困難です。そしてそんな時代だからこそ、自分の中に「使いみちのない風景」を大切に集めていくことの大切さに中谷氏からの問いかけで気付いた気がします。日々の生活を大切にとはそういうことなのかもしれません。
このイベントの内容は毎年アート中之島にも出展してくださっているYARD中谷氏の淹れるコーヒーを楽しんでいただきながら本について2人で語るというもの。私だけでなく本とコーヒーの強い親和性には多くの方が共感してくださると思います。ただお気に入りの本について話すだけではつまらないと、中谷氏に先に選書してもらいそれらに私がアンサーブックを返すスタイルにしたのです。
インスタグラムでも紹介したのでもうご存知の方もおられると思いますが、中谷氏の選書と私のアンサーブックは以下の通り。
中谷氏選書(1) 「人はなぜ戦争をするのか」 A.アインシュタイン/S.フロイト
奧村アンサーブック 「1984」「動物農場」 ジョージ・オーウェル
中谷氏選書(2) 「アイデアのつくり方」 ジェームス・W・ヤング
奧村アンサーブック 「新・魔法のコンパス」 西野亮廣 「小さな声、光る棚」 辻山義雄
中谷氏選書(3)「使いみちのない風景」 村上春樹
奧村アンサーブック 「遠い太鼓」 村上春樹
さてここで語りたいのは最後の選書のやり取りについて。「使いみちのない風景」をめぐるあれこれです。記憶には鮮やかに残っている風景だけれど、そこから何も始まらない、どこにも結び付いていない、何も語りかけない、ただの風景の断片のことを村上氏が「使いみちのない風景」と名付けているという一節があります。
そこから中谷氏はご自身にとっての旅先での「使いみちのない風景」の話になったのだけれど、ふいに「奥村さんにとっての”使い道のない風景”はなんですか?」と問いかけられました。突然のことだったのでしばらく考える時間が必要でしたが、今も記憶に残っていて、それこそ記憶の断片として時折思い出す風景が頭に浮かびました。
しかもその風景は厳密に言うと私は見ていないのです。
初めて訪れたNYのMOMAでのこと。アート鑑賞で疲れ果てた私たちは(先輩コーディネーターとの2人旅)カフェでコーヒーを飲んでいました。その時一人の男性から突然私たちの写真を撮っていいかと話しかけられたのです。なんのことかわからず問い返すと「壁に飾っているモノクロの写真作品と2人の黒い髪、瞳がとても合っているんだ」と返ってきました。
そう言われてみるとその写真作品とそれをはさむ2人の黒い髪の2人の構図はなかなかに素敵です。思わず感心して撮影を承諾しました。カメラを首からぶら下げた男性はきっとカメラ撮影が趣味だったのでしょう。「すごく良いのが撮れたと思うよ」と満足気に立ち去っていきました。そう、立ち去っていったのです。当時デジカメもスマホもない時代、彼がおさめた写真を私たちが見ることできず彼だけの風景として残っていったのです。
けれど不思議なことにその風景を俯瞰して見る私がその時確かにいて、自分は見ていないのにその風景をリアルに覚えています。”壁にかかる黒いフレームに入ったモノクロ写真をはさんだ2人の黒い髪の女性、そしてテーブルの上に白のコーヒーカップ”その風景にあるストーリーはそれだけ。そこから何にも繋がっていかないまさに風景の断片です。時折その出来事が今の時代に起きていたらと想像することがあります。「こんな感じで撮れたよ」とみせてもらって「あら素敵」と返す風景。けれどもしその時その画像を見ていたとしたら、これほどまでに記憶として残ったでしょうか。
ブログをはじめ自分で写真を撮り始め、今はインスタグラムにそれらを投稿しているけれど、時折その私が見なかった風景を思い出すことがあります。今でもはっきりと記憶にある風景(何度も言いますが実際には見ていない)、そしてこのイベントで話すことができた風景は結局のところ私にとっては「使いみちの”ある”風景」だったのではないだろうか?と思うのです。
SNSで写真が簡単にそして大量に流れていくこの時代、いくら素敵なそれらでも心に焼き付けることはかえって困難です。そしてそんな時代だからこそ、自分の中に「使いみちのない風景」を大切に集めていくことの大切さに中谷氏からの問いかけで気付いた気がします。日々の生活を大切にとはそういうことなのかもしれません。