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2023/04/12

”その時”そして”それから”

作品を前に常々疑問に思っていたことが2つあります。

「作家はその作品はいつをもって完成とするのか?」 
「完成した作品はいつまでが作家のものなのだろう?」

きっとそれぞれに答えは違っていてもしかするとそんな質問自体が愚問であるかもしれない、そんな思いもあって親しくしている作家にもその類の質問をしたことはありません。けれどここ最近その答えをほんの少し私に示唆してくれるような出来事が続きました。

少し前にNetflixで観た映画「燃ゆる女の肖像」。ある女性画家が望まぬ結婚を控えた貴族の女性の肖像画を依頼され、ほどなく2人が恋に落ちるというストーリー。映像も美しく特に2人の主人公の意志ある眼差しが印象的な素晴らしい映画でした。特に心に残ったのは貴族の娘が肖像画を前に女性画家にこう問いかけるシーン。

「どうなれば完成?」
「その時がきたらです」

このやり取りに私が知りたかったこと全て集約されているように感じました。私は創作する立場にないのでなんとも言えませんが、きっと多くの作家にとって”その時”がやってきて筆をおくのだろうと腑に落ちたのです。

ここからは実際に私に起きたアートをめぐる最近の2つの出来事。先日お客様の思い出の時計の文字板を壁に描くという作品を納品しました。作品コンセプトについてはここでは説明を省きますが、その時計には作家が作品を描き終えた時間がそのまま反映されます。針が完成時間を示し「完成ですよ」と、ピリオドが打たれるのです。ずっと制作の様子を現場で見ていた私は映画のセリフを思い出しながら”完成の瞬間”を見届けることができる作品を前にだんだんと気分が高揚してきました。普通なら”その時”を作家と共有することはありません。(ライブペインティングのような場合を除いて) ですから、作家とお客様、そして私が”完成の瞬間”に同時に居合わせることができたことはとても感動的で、この先も忘れ得ぬ光景として心に残るだろうと強く思いました。対照的に先日購入した小さな作品をめぐるストーリー。裏を見ると制作年が2013~2023とあり、なんでもこの作品は作家のアトリエの壁に長く存在していて満を持して世に放たれた作品なのだそうです。足掛け10年を経て作家に”その時”がやっと訪れたのでしょうか?ほとんどの作品は前出の作品と違いアトリエで静かに”その時”を作家と共に迎えます。そして多くのアトリエで”その時”を待っている作品がたくさん存在しているのだと想像するとなんともいえぬ感情が湧いてきて、心がほんわりと温かくなるのと同時になぜだか切なくなるのです。

と、ここまでは作品の完成について思ったあれこれ。

もう一つの疑問「いったい作品はいつまでが作家のもの?」それについてもこの2つ作品は様々に考える時間を与えてくれました。前出のように建築に作品を描かれた作品はそのまま空間に帰属し作家の手を離れてしまう気がするけれど、かえっていつまでも作家の手中にある気がします。それは制作を終えても空間に作家の息遣いを感じずっと作家の思いが漂っているように思うから。とはいえ作家とお客様が制作から完成までの時間を共有したことにより生まれる独特の連帯感みたいなものを思うとやはり両者のもの。では完成した作品を購入した場合はどうでしょう?もちろん購入したことで所有する側の作品になった訳ですが、やはり作家の魂がこもっている訳で自分のものであり自分のものでもないような、そんな感覚を私自身はいつも持っていました。作品をいったんお預かりしているといった表現が相応しいかもしれません。つまりどんなスタイルの作品であれ作品はずっと変わらず両者のものだと取りあえずは納得していたのです。

けれど世に出るまで10年かかったその作品が届き、飾った様子を作家に送った際に返ってきたメッセージを読むうちにそもそも違うのかもと思えてきました。それはメッセージの中のこの件”作品が置かれた場所でこれからの時間を見つめ始めているような顔に見える、そしてこの作品がこれから刻むこの先の時間を奥村さんに委ねる”を読んだ時。私はその言葉に感動というより身の引き締まる、そんな心持ちになったのです。そして優しく温かい印象の作品が時として凄みを帯びた強い光を放つのを感じるようになりました。あの映画の中で画家がキャンバスに向かっている時の強い眼差しが逆に作品から注がれているような気がするのです。そう、あたかも作品そのものに意思があり生きているような感じ。

そして私なりの解釈を得ました。”その時”を経て”それから”作品はだれのものでもなく一つの魂としてこの世に存在するのだと。そして作家の元を離れた作品は自我を持ち始めそこで暮らす私たちを静かに見守り続けるのだと。





2023/03/01

教養と財産が旅のキモ?

この仕事を始めた時の苦労話は至る所で話しているのでもう十分と思われているかもしれません。そんな中でも私自身とても苦しかったのが「アートのことを何も知らない」と悟った時でした。その時まではアートを選ぶのもお客様にお勧めするのも「好き」という気持ちが一番と信じ込んでいました。けれどアート関係者と話していて実にあっけらかんと「それって誰ですか?」などと聞いている自分に後になって顔から火が出る思いを繰り返しているうちにハタと気づいたのです。「好きなだけで仕事にしちゃだめなんだ」と。何年も厳しい建築業界に身を置いてきてそんなこともわからなかったとは自分の厚顔無恥ぶりに再度顔から火が出る思いですが、きちんと考えて行動していたらそもそもアートの仕事を始めるなどと思わなかったかもしれません。ぜったい自分には無理とあきらめていたことでしょう。厚顔無恥万歳です(笑)。

そう気づいてからの私はとにかく本を読み、美術史のことも浅くではありますが勉強し、常になにか詰め込めることがあれば詰め込もうとアート脳を養うのに躍起になった日々を過ごしていました。中でも時間とお金を使ったのは海外アート旅です。アートフェアや海外のギャラリーを巡って、よくわからなくても一流のアートを見ることが一番勉強になるのではと考えたからです。当然メガギャラリーで出会う作品と自分の間に関係がある訳ではありません。ただ、ひたすら良いものを見ておけばこの先たとえ若い作家の作品を見た時も自分なりの指針ができて判断できるのではと考えたのです。そしてもう一つ、作品をお客様のために選びお勧めする際にもいろんな素晴らしいアートを眼にしている人だと安心してもらえるのではないかとも思ったからでした。

そんな訳で今思えば無理をしてほうぼう出かけたものです。でもそのアート旅の違った側面に気づいたのはなんとコロナ明けに出かけた先日の旅行の時でした。それに気づかずずっと旅行してたなんて自分でもちょっと笑ってしまいます。それはアート旅を繰り返し、多くの方の話を聴いたり資料を読んだりしているうちに自分の中に貯金してきた”教養”の2文字。いろんなことが頭に詰まっていると美術館に行ってもギャラリーに行っても本当に楽しいんです。”教養”と聞くとちょっと偉そうに聞こえるし、私にはほど遠いイメージの言葉でもあると自覚しています。でも”教養”ってあとから自分の努力次第でなんとでもなるもの。さらに辞書を紐解くと「学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかりと身につけることによって養われる、心の豊かさ」とあります。私の場合アートを仕事にしてしまったのでかなり無理をしていろんな知識を詰め込んだけれど、幸いにもとても好きで興味のあることだったためすんなり”教養”として私の細胞に溶け込ん込み、心の豊かさとして自分の中に存在してくれているようです。「教養があると遊べる」とはタモリ氏の名言ですが初めて聴いた時になるほどと膝を打つ思いでした。今ではその言葉は自分の経験からも裏づけされている気がするのです。

そしてもう一つ。アートを旅に絡めると国内外問わず旅の記憶がより鮮明になり記憶にとどまる気がします。今回の旅行でも至る場所でかつてのアート旅を思い出し、それがいつだったのか厳密にいうとどの美術館だったかも忘れているのに、その時の空気や湿度、天候みたいなものが体感として蘇るような不思議な経験をしました。そういったかつての多くの作品との対峙も私にとっては知らず知らずのうちに形のない財産として心に残っていたのです。”教養”と”アート鑑賞が培ってくれた心の財産”が私の旅をファーストクラスで渡航し最高級ホテルに滞在するのと同じレベルにラグジュアリーなものへと導いてくれました。そしてそれに今回ようやく気が付くことができたなんでいったい何年かかったんでしょう(笑)?


たまたま私にとっては旅行×現代アートが旅行という非現実的かつ逃避といった時間をより色濃いものにしてくれますが、人によってはオペラかもしれないしクラシックコンサートかもしれません。けれどそこでグルメ旅とかになるとまた違ったものになる気がします。もちろん美味しいものを食べ歩く旅もたいそう魅力的だし楽しいと思います。ただそこに至るまでに自分の中に”教養”とすべく自分から働きかけて勉強してきたものを追いかける旅はある種”答え合わせ”的な感覚を伴っているためより深い楽しみが潜んでいる感じがあるのではないでしょうか?(もちろん食のプロの方は別として)

さて今月パリで見たアートの話と旅のファッションについて話すイベントを急遽開催することになりました。私のようなものの話で教養を高めていただこうなどと微塵も考えておりませんが、話す言葉の断片にご自身でしっかり肉付けしていただいて是非次回のご旅行に役立ててくださればいいなあなどと思います。私がアートを知ることによって海外での美術館巡りがぐ~んと楽しくなった感覚をお節介なようですが皆さんにも味わってほしいのです。ご興味ございましたらぜひ遊びにいらしてくださいね!

31日・1日両日とも満席となりました
お申込みありがとうございました。
2023/02/21

マイナスの美学そしてプラスの極意

実に久しぶりに海外に出かけてきました。その旅への思いはリネン&デコールさんとの往復書簡にしたためていますのでそちらをお読みいただけると嬉しいです。

今回はロンドン~パリを駆け巡るアート旅。かなりタイトなスケジュールでしたが、訪れたかった場所をコンプリートし、会いたい人にも会うことができた充実のひとときでした。そして毎度のアート旅同様、美術館やメガギャラリーの展示の圧倒的なすごさに打ちのめれ、けれどその打ちのめされた方が心地よくさえある”あの感じ”が久しぶりに蘇ってきて、素晴らしい建築空間の中で極上のアートに包まれる至福のひとときを過ごしました。

このブログでは初めて訪れた街バースについて綴ってみたいと思います。ロンドンから電車で一時間半ほどの郊外にある街バース。私の感覚で言うと大阪から京都(より少し遠いですね)といった感じ。初めて訪れたバースは小京都にたとえるとぴったりな小さくて、古い建造物がたくさん残るとても美しい街でした。けれどなぜアート旅でバースなのか?それはかねてから行ってみたいと思っていたギャラリーの存在があったからです。

雑誌「CEREAL」を発行しているRosa Park氏が拠点であるバースに開いた小さなギャラリーで名前はフランシス・ギャラリー。今はロスにもスペースがあるようです。インスタグラムで自宅の様子もずっと見ていたのだけれどとにかく震えるほどセンスがいい。けれどギャラリーは日々の生活に寄り添う感じで決してそのセンスは人を寄せ付けないものではない雰囲気です。メガギャラリーを巡るのも楽しいけれど、それらは私にとっては目の保養であり次元の違う世界のお話。そんな現代アート系ギャラリーとは違う立ち位置にあり、東洋と西洋、アートと工芸が無理なくそしてとびきりセンス良く展示されているギャラリー空間を見ることは、これからの私の仕事においてなにかヒントになるかもしれないと思っての訪問でした。

実際訪れてみるとインスタ画像で見ていたイメージより小さなスペースでしたが、心地よく凛とした空気が流れていて想像通りとても素敵なギャラリーではるばるやってきた甲斐があったというもの。図々しいことを承知の上で言ってしまえばなんとなく「こぉと」に通じるものも感じます。壁にかかる柔らかな色調のミニマムアートと一緒に並ぶセラミックの作品。空間はどこまでもシンプルでまさにそこにはマイナスの美学が貫かれています。前日ロンドンでメガギャラリーのとんがっている世界に触れ続けていた後に身を置いたそこで私は心地よい安堵感に包まれました。きっとその感覚は私自身の中の日本人としてのマイナスの世界に対する安心感に繋がったからでしょう。侘び寂びの世界観を自分なりに解釈して空間にしたらどんな感じだろう?そこにアートを飾るって素敵じゃない?「こぉと」計画の際に思い描いていた空間が目の前に繰り広げられているようでした。私の場合は大きな資金を空間に使うことが叶わなかったためどれほど自分の世界観を実現できたかはわかりませんが、展示の様子を見てこれからの「こぉと」のあり方が見えてきた気がしました。厳密にいうと「こぉと」はギャラリーではないけれどこれから私がやりたいことへの指針となった訪問でした。

さてここからまだお話は続きます。ただフランシス・ギャラリーではとても近しいものを感じ取ったものの、どこか自分の中で想定内といった感覚が残ったのも事実。この後私はこのギャラリーとは対極にあるような空間に身を置くことによってインテリアについて頭の中に様々な思いが渦巻いてきたのです。その場所とはある素敵な女性に案内されて訪れた小さなホテルのティールームでした。(案内してくださったSさんとの当日の様子もインスタグラムで投稿しています)

そこで私のインテリア脳はざわざわと騒ぎだしました。足を踏み入れた途端に「わあ」と小さく声がでてしまいそうなくらい、様々にスタイルやテイストの違う調度品が溢れかえった空間は一歩間違えればキッチュの一言で片づけられてしまいそう。けれどインテリアデザイナーのフィルターにかかり"ぎりぎり”のところで最高に洗練された空間に仕上がっているのです。このプラスにプラスを重ねたうえで”ぎりぎり”を狙うインテリアの手法は欧米デザイナーの真骨頂といった感じがします。だって大昔から彼らの先祖はプラスプラスのインテリアで暮らしてきていたのですから。先祖レベルの話になってくると我々のDNAにはマイナスマイナスのインテリア因子が脈々と流れているはず。障子や畳といったシンプルな内装材?に床の間にはお軸が一幅花一輪。それこそマイナスの美学ですもの。さて話を戻してこのティールームですが物が溢れていることにより洗練さに程よく温かみが加わり、物がたくさんの生活は好みでない私でさえずっとここにいたいと思わせるような素晴らしい空間でした。あの場所に身を置いていた2時間を私はこの先もずっと忘れることはないでしょう。まさにプラスの極意だと私は心から感動を覚えたのです。そして印象的だったのが、日本的に表現すると「カワイイ」となりそうなティールームに集っているのは大人たち。日本だとインスタスポットとして若い女性に占拠されそうな中みんな心地よさげにお茶を楽しんでいます。その風景までもがインテリアデザイナーの思惑通りと言った感じで、不思議の国のアリスみたいなインテリアの中、大人たちがティーカップを手にゆるりと過ごしている様子はちょっと不思議で洒落ています。自分もインスタ投稿していながら偉そうなことは言えませんが、マイナスの美学・プラスの極意、いずれにしてもそこに身を置く人にその価値は委ねられているということでしょうか?ちらりとそんなことも頭をよぎりました。

バースでの一日は両方の世界が持つ粋さといったものを感じることができた貴重な経験でした。そして私は「こぉと」で自分なりのマイナスの美学を貫こうと誓ったのです。








2022/10/29

私の中の「使いみちのない風景」

少し前の話になりますが、9月にこぉとで「本とコーヒー」イベントを開催しました。ふと思いついたイベントなのですが、なかなか充実した内容となり、参加いただいた方からも「とても興味深くすぐにでも本を読みたくなった!」と満足いただけたようです。

このイベントの内容は毎年アート中之島にも出展してくださっているYARD中谷氏の淹れるコーヒーを楽しんでいただきながら本について2人で語るというもの。私だけでなく本とコーヒーの強い親和性には多くの方が共感してくださると思います。ただお気に入りの本について話すだけではつまらないと、中谷氏に先に選書してもらいそれらに私がアンサーブックを返すスタイルにしたのです。

インスタグラムでも紹介したのでもうご存知の方もおられると思いますが、中谷氏の選書と私のアンサーブックは以下の通り。

中谷氏選書(1) 「人はなぜ戦争をするのか」 A.アインシュタイン/S.フロイト
奧村アンサーブック 「1984」「動物農場」 ジョージ・オーウェル

中谷氏選書(2) 「アイデアのつくり方」 ジェームス・W・ヤング
奧村アンサーブック 「新・魔法のコンパス」 西野亮廣 「小さな声、光る棚」 辻山義雄

中谷氏選書(3)「使いみちのない風景」 村上春樹
奧村アンサーブック 「遠い太鼓」 村上春樹

さてここで語りたいのは最後の選書のやり取りについて。「使いみちのない風景」をめぐるあれこれです。記憶には鮮やかに残っている風景だけれど、そこから何も始まらない、どこにも結び付いていない、何も語りかけない、ただの風景の断片のことを村上氏が「使いみちのない風景」と名付けているという一節があります。

そこから中谷氏はご自身にとっての旅先での「使いみちのない風景」の話になったのだけれど、ふいに「奥村さんにとっての”使い道のない風景”はなんですか?」と問いかけられました。突然のことだったのでしばらく考える時間が必要でしたが、今も記憶に残っていて、それこそ記憶の断片として時折思い出す風景が頭に浮かびました。

しかもその風景は厳密に言うと私は見ていないのです。

初めて訪れたNYのMOMAでのこと。アート鑑賞で疲れ果てた私たちは(先輩コーディネーターとの2人旅)カフェでコーヒーを飲んでいました。その時一人の男性から突然私たちの写真を撮っていいかと話しかけられたのです。なんのことかわからず問い返すと「壁に飾っているモノクロの写真作品と2人の黒い髪、瞳がとても合っているんだ」と返ってきました。

そう言われてみるとその写真作品とそれをはさむ2人の黒い髪の2人の構図はなかなかに素敵です。思わず感心して撮影を承諾しました。カメラを首からぶら下げた男性はきっとカメラ撮影が趣味だったのでしょう。「すごく良いのが撮れたと思うよ」と満足気に立ち去っていきました。そう、立ち去っていったのです。当時デジカメもスマホもない時代、彼がおさめた写真を私たちが見ることできず彼だけの風景として残っていったのです。

けれど不思議なことにその風景を俯瞰して見る私がその時確かにいて、自分は見ていないのにその風景をリアルに覚えています。”壁にかかる黒いフレームに入ったモノクロ写真をはさんだ2人の黒い髪の女性、そしてテーブルの上に白のコーヒーカップ”その風景にあるストーリーはそれだけ。そこから何にも繋がっていかないまさに風景の断片です。時折その出来事が今の時代に起きていたらと想像することがあります。「こんな感じで撮れたよ」とみせてもらって「あら素敵」と返す風景。けれどもしその時その画像を見ていたとしたら、これほどまでに記憶として残ったでしょうか。

ブログをはじめ自分で写真を撮り始め、今はインスタグラムにそれらを投稿しているけれど、時折その私が見なかった風景を思い出すことがあります。今でもはっきりと記憶にある風景(何度も言いますが実際には見ていない)、そしてこのイベントで話すことができた風景は結局のところ私にとっては「使いみちの”ある”風景」だったのではないだろうか?と思うのです。

SNSで写真が簡単にそして大量に流れていくこの時代、いくら素敵なそれらでも心に焼き付けることはかえって困難です。そしてそんな時代だからこそ、自分の中に「使いみちのない風景」を大切に集めていくことの大切さに中谷氏からの問いかけで気付いた気がします。日々の生活を大切にとはそういうことなのかもしれません。
  
2022/05/25

「夢のつづき」のつづきのオハナシ

私にとって3回目となる銀座蔦屋書店でのトークイベントに4月末登壇しました。1回目は「アートと暮らす日々」の出版記念、2回目はリネン&デコール代表菊川博子氏と、そして3回目は谷口江里也氏による「ギュスターヴ・ドレとの対話」刊行記念で氏の対談相手としての登壇でした。

この経緯についてはインスタでも少し触れているのでご存じの方もおられるかもしれませんが、今一度。事の始まりは奈良蔦屋書店で見つけた一冊の本。それが谷口氏のご著書「夢のつづき」だったです。ピカソがひとさし指を天に上げている不思議な写真が装丁に使われていて、吸い寄せられるように本を手に取ったことを覚えています。その時まで私は谷口氏のご本を読ませていただいたことはなかったのですが、そのエッセイの中に出てくる数々の珠玉のストーリー(もちろん実話)が不思議なほど心に迫ってきて忘れられない一冊となりました。著名な人とのやり取りだけでなく、スペインの市井の人々と氏が繰り広げられたその会話のなんと美しく感動的なこと。そしてその本は日本にいながらスペインの風や香りに包まれるような、そんな感覚をも残してくれました。

そんなことから昨年の菊川氏との対談の中お気に入りの一冊として「夢のつづき」を取り上げさせていただいたのです。選書コーナーに置かれたその本はすぐに売れてしまい、出版社未知谷の方からも感謝のメールをいただきました。なんだかちょっとくすぐったいような気持ちになったのですが、本を通じてたくさんの方に私同様の感動が届くのだと思うと本好きとしてはとても嬉しい出来事でした。

そんな感じで「夢のつづき」にとても思い入れがあったものの、氏の最新刊「ギュスターヴ・ドレとの対話」刊行記念の対談相手として蔦屋書店からご指名いただいた時はまさに青天の霹靂。「本当に私でいいんですか?」としか言えませんでした。正直「夢のつづき」の中でギュスターヴ・ドレが登場してもその名前にピンとこず、そんな私が対談相手として皆さまの前に立つなど恐れ多い話。けれど蔦屋書店Sさんから「とても美しく興味深い本ですよ」と告げられたこと、さらには谷口氏に直にお目にかかってみたいという思いの方が躊躇する気持ちより強くなってきたことから「えいっ」とお引き受けすることにしたのです。

ほどなくゲラが(ああ、人様のご本のゲラを読むという栄誉!)送られてきたのですが、谷口氏が友人のような口調でドレに語りかける感じでドレを知らなくてもすんなり頭と心に沁みこんでくる内容でした。読み進めていくうちに自然とドレの人となり、制作スタイル、さらには当時の美術界でのドレの立ち位置などを知ることができたのです。とはいえ、対談させていただくからには一読者として臨む訳にはいきません。その後完成した本も送られてきてさらに読み込み付箋だらけ(笑)。「夢のつづき」に出てきたドレにまつわるエピソードと照らし合わせて私としては万全の体制とまではいかずともできる限りの準備を進めました。

けれど準備はしたものの初めてお会いする谷口氏が気難しい方だったらどうしよう、付け焼き刃でドレについて学んだ私なんぞと対談することでご気分を害されたらどうしようと、不安は尽きません。なので蔦屋書店Sさんに私はあくまで教えを乞う形で対談を進めてもいいかと打診したところ、その方が話を聴いておられる方にとってもよりわかりやすく伝わるかもしれないということになり、そんなカジュアルなスタイルで話を進めることになったのです。

そして迎えた当日、すべての不安は谷口氏とお目にかかった途端に吹き飛びました。氏は優しい笑みを浮かべた茶目っ気溢れる実にチャーミングなムッシュ。私の仕事内容も事前に調べていただいたようでお会いしてすぐに意気投合し、本番が始まる前に話はとどまることはありません。「ここからもうトークイベントが始まっているみたいですね」と話しながら、本同様にご本人から発せられる「言葉の宝石」を漏らさず心に留めることに夢中になりました。

けれど不思議なことに話された内容がこれこれだったとは覚えていないのです。私が日頃から考え実践し、信念としている内容とあまりに合致していたからかもしれません。すんなりと心と頭に溶け込んでそのまま細胞になった感じ。後から思えば氏と話した時間は「夢のつづき」のつづきともいえる不思議で感動的なひとときであったとしか表現できないのです。

トークイベントでは氏の溢れるドレ愛を聞かせていただき、その熱量に圧倒される思いでした。対談相手として相応しかったかどうかは別として、とても楽しいお話を披露していただくことができたことは、後から写真を見て再確認。くしゃくしゃの笑顔の私がそこにいたからです。

トークが無事終わり私は自分を少し褒めてあげたくなりました。よくぞ勇気を持ってこのトークイベントを引き受けたと。それほどまでに私にとっては貴重な経験になったからです。谷口氏・蔦屋書店に心からお礼を申し上げます。

そしてあの夜あの場所にいたであろうギュスターヴ・ドレにも感謝を。。。