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2021/03/07

音のオハナシ


*「こぉと」計画中に感じたことを様々な切り口のオハナシで綴っていきたいと思います*

一番最初は「音」のオハナシです。

計画が始まったばかりの打ち合わせでのこと。ひとともりの長坂氏が私に尋ねました。

「奥村さん、音はどうしますか?」

つまりスピーカーを設置するかどうかということです。私は即座に「音は必要ありません」と答えました。というのも私はカフェやレストランで流れるバックミュージックというものがどうにも苦手。海外のそれらのように、人々が静かに会話する音や食器の重なり合う音が混ざりあう心地の良い音で満たされる空間が、日本でも普通になればいいのにと常々思っているからです。そしてこの静かな場所では鳥のさえずりや風が緑を揺らす音、そんな自然が生み出す音を聞きながら作品に向き合ってほしいとずっと考えていました。

昔、アマンキラに滞在した時に極上のサービスとは「音のないこと」だと感じたことがあります。プールサイドで水をお願いしようとふと顔を上げると足音も立てずに瞬時に歩み寄ってくるスタッフの身のこなしはとても優雅で、レストランで食事をサーブされる時には食器の音さえ聞こえません。頭の中で「ことり」という音の文字が浮かぶのだけれど実際には音がしない。音を立てない動きは丁寧で洗練されていて美しく、サービスを受ける方もとても心地の良いものだと心に深く刻まれました。余計な音のない場所での波のさざめきががどれほど気持ちの良い音だったかは言うまでもありません。この”音なき音”こそ”最高の音”であるとその時つくづく思いました。

一方(音楽とは別に)心地のよい音もたくさんあります。たとえば腕の良い職人さんが作業中に奏でる(あえてそう言います)音。「こぉと」施工中に私は幾度もその音を聞く幸運に恵まれました。特に左官工事の職人さんのそれは素晴らしかった。「ざっ」「しゃっ」と軽快で小気味良い音を聞きながらずっとその作業を見続けていたい気持ちになったほど。当然ながら完成した壁は美しく完璧。ここでは最高の”音のある音”の一つに出会いました。その音はアマンキラで記憶に残った最高の”音のない音”とは対極に最高の”音のある音”として同じく私の記憶に残ることになるでしょう。

空間がほぼ出来上がった頃、一人でぼんやりその場所に身をおきながら聞こえてきたのは鶯の澄み切った美しい鳴き声でした。

その時私は音の無い空間にこだわったことが正解であったと改めて悟ったのです。
2021/03/06

こぉとのオハナシ


「アートを暮らしに」と提唱し続けてきた私の役割はほぼ終わったと実は2年ほど前から感じています。昨今同じようなことを唱える方も多くなってきたし、様々な媒体でインテリアにアートを取り入れるコツをレクチャーしている特集を目にするようになりました。

その流れをとても喜ばしく思うと同時に、インテリアにアートを取り入れてもらうべく孤軍奮闘していたあの頃を振り返り、懐かしくさえあります。私の担ってきた(というとたいそう大げさで偉そうに聞こえるかもしれませんが)役割のバトンを渡すべき時期に来ているのかもしれません。とはいえ、これから先も良い作品を多くの方に届けたいという気持ちに変わりはなく、アートアドバイザーとしての仕事は続けるつもりです。ただ今までと少し違った新しい試みにチャレンジしたいという気持ちが徐々に大きくなってきました。

これまでは「アートと暮らすとどれだけ生活が豊かになり心が満たされるか」をお伝えすることが出発点でしたが、これからはすでにアートと暮らしている人が、どういう暮らしを求めるようになったかの視点で生活全般を提案したいと思うのです。つまり「アートと暮らすことでどんな心持ちに変化していくのか」というアプローチでしょうか。さらには「アートと暮らすとどんな風に暮らしたくなるのか?」そういったことをこれからは提案していくつもりです。

そんな中つらつら考えるうちについに小さなプライベートビューイングスペースを構える決断をしました。古い日本家屋の一部を改装しそこから「アートを購入したその先」といったものを発信したいと考えたのです。

そしてその空間の名前を考えているうちにふと「こぉと」という言葉が自然と頭に浮かんできました。おそらく多くの方にとってはあまり聞き馴染みのない表現でしょう。古いなにわ言葉であらためて調べてみると”派手の対極”にある形容詞で、”渋い・地味だけと品が良く人の目をひく””渋くて趣がある””質素で上品”という意味があります。「こぉと」と小さくつぶやいた時、小さな頃からちょっと渋いものが好きだった私が何かを選んだ際に、よく祖母から「えらいこぉとな趣味やね」と言われていた記憶が鮮やかに蘇ってきました。

アートと暮らすと華美なものにあまり興味がなくなり衣食住すべてにおいてもっと素のものというか真髄に迫ったものに心惹かれる気がします。衣食住ことさら主張するものではなくとも、でも実はとてもこだわりがあったりするものを求めたくなる感じ。そんな想いを込めるのに「こぉと」の表現がしっくりきたのです。華やかなアートシーンとはかけ離れた遠くの場所で、私はこの先も地味にひっそりと、けれど私なりの頑なな信念をもってアートと関わっていきたいと強く思います。

「こぉと」は主にセミナー開催やアート中之島と連動したプライベートビューイングスペースとして活用していく予定です。そして同時に田舎に暮らすアートアドバイザーである私のライフスタイル発信の場所として皆様に何かをお伝えしていけたらと考えています。

アートと暮らすその先にあること。

どんな空間に暮らしたいの?
何を着たいの?
どんな香りと暮らしたいの?
何を着たいの?
コーヒーやお茶はどんなのが好き?

そんなことを考えつつ近い将来コラボ商品も手掛けるつもりです。

ブログを綴り出したころからの妄想事項は、、、

雑誌でインテリアとアートの連載をしたい。
小さくても自分の大好きな作品を集めたアートフェアを開催したい。
本を出したい。
本屋さんで奥村セレクト書棚を作ってもらいたい。
プライベートビューイングルームとして小さな空間を持ちたい

言霊の威力は恐ろしく、ずっと言い続けているうちになんとすべてが実現してしまいました。

けれど私はまだまだ先に進みます。

「アートを暮らしに」の熱い想いははもう十分にたくさんの方に伝わったはず。

さらに先に。もっと先に。







2019/02/05

一番好きなアーティストって???

本の撮影も無事終了してほっと一安心、、、したのも束の間。本づくりが本格的に始まりなんだか考えることがいっぱいです。昨年からずっとどういう内容でいこうかとエディターの加藤さんとやり取りをしているのですが、ここへ来て私の大好きな作家とは?影響を受けた作家とは?と改めて考えることが多くなりました。

美術館で観る作家という範囲で脈絡なく上げていくと物故作家ならモランディ、二コラ・ド・スタール、サイ・トゥンブリー、ロスコ―、ブランクーシ、フェリックス・ゴンザレス・トレスなどなど。存命というか活躍中の作家だとロバート・ライマン、ミヒャエル・ボレマンス、村上友晴、ヤン・ヴォ―、、う~んいったい何人いるんだろう?

私の場合特に誰が一番好きでなんらかの影響を受けたかってなると”みんな”っていうしかありません。偉大なアーティストたちの作品を観ることでアートに魅せられ結局アート業界の最末端に身を置くことになった訳ですから。それに私は自身作家ではないので直接的に影響を受けることはないし、受けたからどういう変化が自分に起きるのか考えてみたこともないのです。

ただそんなことをつらつら考えているとふと昔の記憶が蘇ってきました。上にずらっと挙げた物故作家の中で特に好きなのがド・スタール。大昔同じくド・スタール好きの先輩コーディネーターから新聞の切り抜きのコピーをもらいました。それは藤原新也氏がド・スタールを軸としたある男性との想いで話を綴ったものでした。ド・スタール好きにとってはすさまじく心に迫ってくる内容でそのコピーを長く大切にしていたのですが、2度の引っ越しで紛失してしまいました。

いろいろ検索したところ、そのエッセイは短編小説として形を変え「夏のかたみ」としてこの短編集におさめられていることが最近わかりました。早速読んだのだけれどド・スタール作品の持つ寂寥感といったものが文章から強く伝わってきます。

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自死を選んだド・スタール、そしてエッセイの中で出てくるド・スタール好きの男性も自死の結末を迎えたこと。その場所の景色がまさにド・スタールの絵に出てくるような光景であったこと。エッセイの中では確か「完璧な死」と表現されていたような。(その辺り記憶が曖昧でごめんなさい)私の中ではド・スタール作品とこのエッセイは同時に頭に浮かんでくるくらい印象的な話です。

有名アーティストのドラマティックな人生や破天荒な生き方、それを取り巻く人々の話なんかをほほ~と読むことはあるけれど、市井の人とアーティストの人生が交錯する話でこれほどまで感動したことはありませんでした。これこそアーティストとの運命的な出会いなんじゃないだろうかと。。。

そんなド・スタール作品がフィリップス・コレクション展で2点展示されています。(2月11日迄)ご興味のある方、本と一緒に是非に!






2018/12/17

アートを買うということ

先日購入した作品が届きました。金木犀がモチーフの作品で来年の花の時期まで飾るのはお預け。今からとても楽しみです。

私がアートを購入するのにはいくつかの理由があります。まずは理由とか訳とか関係なくアートが大好きだから。そして気に入ったから(もちろん私のお財布事情で買えるという条件の元)。今では洋服を買うよりアートを買う方が抵抗なくお金を出せるようになりました。

2つ目は作品を買うという行為で作家を応援したいからです。現代アートの定義はいろいろあれど、私にとっての現代アートはまさに今生きてる作家の生み出すアート。今美術館で観る古典的な絵画も当然その当時の現代アートだったわけです。そう思うと自分の生きている時代に作家を応援するということは、これからの世代のためにギフトを用意しているように思えるのです。もちろん買った作品が美術館に飾られるということは難しいけれど、大きな視野でとらえればそういうこと。そう考えるとギフトそのものではなくともせっせと包んだりリボンをかけたり、そんな地味な作業を請け負っているような気分になることがあります。

3つ目はこれは私特有だと思うのですが、アートを買う人の気持ちを忘れないようにするためです。例えば10万円のアートというとアート業界からすれば大きな金額ではないかもしれません。けれど10万円といえばそこそこの金額です。その辺り私も段々麻痺してくることがあります。でもその10万円をファーストピースに使ってくださるお客様の不安やドキドキを絶対わすれてはいけないと思うのです。なので作品を買うということは高いものをお売りしているという自分の立場を絶対忘れてはいけないと気を引き締める行為でもあるのです。

アートを扱うようになり、さらにはフェアを開催するようになってから、インテリアコーディネーターをしていた時の接遇マナーがとても役に立っています。(たくさんのお客様が重なった時対応が手薄になって失礼をしていることもあるかと思いますが💦)そのマナーはここで言うほどのことでもないくらい基本的なことです。でもそれを守らないとお客様がとても不愉快になられる危険性だってあります。私は自分がずっと接客業だったのでとっても気になる。逆の立場だったら「高価なものを売っているのにこんな態度!」なあんてキレるだろうな~といつも自分基準ではありますがマナーを守るようにしています。フレンドリーと慣れ慣れしいのは全然違うし、ジョークも一歩間違えれば命取り。特に関西ではウイットにとんだ会話(お笑いともいう?笑)も必要となってくるのでその辺りコーディネーター時代の経験がすごく役立ってると感じることがあります。

逆に作品を購入した際にとても丁寧に対応してもらうと「よ~し、私も真似するぞ!」と自分がとても気持ちよく作品を買い求めた経験を次に生かすようにしようと心に誓ったり、、、お客様の立場になって考えるには自分が作品を買わないと無理なんです。

今年を振り返り、きちんと作品をお渡しできる自分でいただろうかと自分に問いかけると私の答えは「まだまだ」。そんな反省もいろいろありつつの12月ですが、ふふ、また買っちゃった。。。

アートは直感で買うべし

だれの教えか、、、奥村アート教教祖のお言葉です。
2018/12/06

自然は自然・アートはアート

12月となるとどうしてもこの1年のあれこれを振り返ることが多くなります。日々いろんなことを考え感じていてもつい忙しさにかまけてインスタ投稿でサクサクっと済ませてしまうことも多く、慌ただしくてもこの時期だからこそ、いろいろと綴ってみたいと思います。

5月に久しぶりにNYに出かけたことはここでもアップしました。もちろんアートの刺激を存分に受けた訳ですが、ちょっと心に残ったことについて、、、最終日に一緒に過ごしたまりちゃんと次はどこに行きたいという話になりました。それぞれ今度はここかな~とあれこれ好きなこと言ってたのですが、秘境と言われるところに訪ねていって感動はどのくらいなんだろうという話になりました。昨今SNSで画像や情報も存分に見たり集めたりすることができ、ましてやドローンで撮影した映像なんかを見てしまうとすごいって思いますよね。本当にそこにいたとしてもそんな風には見ることはできないから、同じように感動できるのかなって。当然感動はしまくるけど予想以上にするかどうかわからないよね、と。そうなると秘境と言われる特別な場所でなくても、だれも知らないであろう場所に感動を覚えるかもしれないという結論になりました。つまり既視感のないどこか。そして手つかずならぬSNSつかずの場所。

その話をしながNY初日に訪れたDia Beaconでの出来事を思い出していました。もちろんそこだって散々SNS上で知ってはいたけれど、空間に入った途端なんとも言えない感情に包まれて感動という言葉で表すことができないくらいの心揺さぶられる気持ちになったことを。その瞬間私にとってのアートはこういうことなんだと悟りました。”人の作った”空間に置かれた”人の作った””作品ではあるけれどその空気感には特別なものがあって、自然を見て感動するのとは別の次元であるけれど時折同じくらいの感動を人に与えることができるんだと。そう考えるとかつて観た記憶に残る展示の数々は単に「あ~すごかったな~」とかではなくその鳥肌具合、つまり体感としてで覚えてる気がします。自然は受け身でいても感動はできるけれどアートは受け身では真に感動できないのです。

もう一つ何年も前に同じくNYでの出来事で忘れられないエピソードがあります。一緒に美術館巡りをしていた大西伸明氏が窓越しの風景を見ながら「自然にはどうしたってかなわないんだよな」とポツリと言ったこと。ご本人は覚えておられないかもしれない(笑)でも本当にそうなんだな~ともその時思いました。よく「自然が織りなすアート」なあんてフレーズをよく聞きますが、その度に「自然は自然でアートはアートでしょうが、、、」と心の中で軽くツッコミます。その表現なんとなく私には耳障りなんです。自然にだってアートにだって失礼だと本気で思っちゃう(笑)

私自身お客さまやいろんな方から現代アートってどのくらいの範囲まで含まれるんでしょう?と聞かれることがあります。工芸は?器は?その答えは本当に難しくてまともに答えられたことがありません。本来の区別はガチの美術関係者に委ねるとして、私の中での解釈は上に述べたことかなと思います。自然と同じくらいのレベルで心振るわせられたら”アート認定”!!!

今日のお話バラバラなようで私の中では繋がってるの。高校生の時国語の時間で天声人語のパラグラフをばらばらにしたものを正しく並べ替えるって授業があったけど今日の私のブログはどう並べてもOKなくらい支離滅裂(笑)

ま、そんな日もあるさ。。。チャオ!